雛人形の歴史 雛人形2300年時空の旅 ドールコーディネーター平安春峰
●J人形のはじまりとその歴史

雛人形と江戸期人形-その美とこころ-(約11分29秒) 監修 人形のモリシゲ ドールコーディネーター平安春峰  


人形の祖先は、人の形をした人形(ひとかた)、形代(かたしろ)、ほうこ、あまがつといったものが古く、祓えや魔除けの色合いを強く持っていました。 奈良時代中頃、平城宮朱雀門前で、六月と十二月の最終日には、大祓えが挙行されました。 国がおこなう最大の祓えでした。 皇族をはじめ役人全員が参加しました。 壬生門の前の溝からは、大祓えの時に使った人形200点あまりが見つかっています。

災いを人に代わって背負い水に流される。 人形のそもそものはじまりは、深く信仰と結びついていました。 やがて子供の健やかな成長を願い、あまがつ、ほうこというシンプルな人形が部屋に飾られるようになりました。 時は移り絢爛たる武家文化、町人文化を花咲かせた江戸時代、日本の人形文化は一気に黄金時代を迎えます。

ひいなとは、小さくて可愛らしいもの、その姿は、紙から押し絵、衣裳を付けて胡粉を塗る精緻(せいち)な物となり、江戸時代には、人々の好みを色々に写し取るようになりました。 端午の節句に飾られた武者人形、武を尊(たっと)ぶ御祝に家の前に飾られた兜や鎧が、いつしかこのような人形となって座敷に飾られるようになったのです。 後三年の役の勇者、源義家(写真1)、神話時代、新羅(しらぎ)遠征に数々の武勲を挙げた神功皇后(写真2)、何れも勇ましい物語を人形に見たてています。
(写真1)源義家
 
(写真2)神功皇后

謡曲高砂を舞う人形(写真3)、舞の初さ添えられた翁(おきな)、嫗(おうな)の面、重ね着している能衣裳の一枚一枚に至るまで丁寧にこしらえられた衣裳人形。 江戸期には、このような優れた衣裳人形が、数多く見られます。 中国の皇帝を見たてた鶴亀(写真4)、大陸風の衣裳に切れ長な面立ち、冠に鶴亀をいただいて立膝をしたその姿は、衣裳人形の絶品と言えます。 初番目物(しょばんめもの)の能「鶴亀」を題材にしたもので、長生殿の初春の節会(せちえ)で皇帝に長寿をさずける鶴と亀を写しています。 水引を付けてあどけなく笑う立姿三体(写真5)、水引は、この人形が贈り物に使われたことを表しています。 どんな人が、どのような御祝に、この愛らしい人形を飾ったことでしょう。 中国風の唐子(からこ)人形や、たっつけ袴に、甚兵衛(じんべえ)をはおった道中物売りの姿、角頭巾(すみずきん)を被り、上っ張りに前掛をしめた店売りの姿など、当時の生活振りが生き生きと写されています。
(写真3)高砂
(写真4)鶴亀
(写真5)立姿三体

京都を通る西国大名が、御所参内に賜ったり、勅旨下向(ちょくしげこう)の際に徳川家のお土産に用いたのが、この御所人形(写真6)です。 三頭身の大きな頭に特長のある目鼻立ち、御所人形は、日本を代表する人形と言えるでしょう。 人形と言えばお雛様、お雛様と言えばお内裏様、男女一対の内裏雛は、はじめは、立ち姿(写真7)でした。 紙で作られ衣裳も男雛(おびな)は鳥帽子(えぼし)に小袖、袴、女雛(めびな)は小袖に細幅の帯姿で室町時代の庶民の風俗をかたどったといいます。 しかしその顔立ちの美しさは、もう立派なお雛様です。
(写真6)御所人形
(写真7)立ち姿

座雛は立雛よりおくれて江戸中期の終わり頃から盛んになり、様々なタイプのものがつくられるようになりました。 古いものから順に、室町雛、寛永雛、元禄雛、享保雛(きょうほびな)、有職雛(ゆうそくびな)、次郎左衛門雛、古今雛(こきんびな)と発展しました。 この中でも享保期に流行した享保雛(写真8)は、現在の雛人形の原型になりました。 雛の頭に髪が植えられ、目は切れ長で、口を少し開いた写実的な面だかな顔立ち、男雛の衣裳は、金襴、錦などを用いて、太刀を差し、手に笏(しゃく)を持たせています。 女雛は、五衣(いつつぎぬ)の重ねに唐衣(からぎぬ)姿で、袴に綿を入れて丸く膨らませ、袖を大きくはみ出し、手に桧扇(ひおうぎ)を持たせています。 この時代は、町人階級が台頭し贅沢な高級品が好まれて人形が大型で豪華になりました。 その大きさを今のお雛様と比べて見ると違いが良くわかります。 豪華になりすぎたため幕府より「八寸以上のものの製作を禁ずる」とのおふれがたびたびだされたようです。 享保雛の豪華さとは対照的に公家風俗を正しく考証した有職雛(写真9)、朝廷の装束を担当する公家の高倉家、山科家が調整したと言われ、身分、年齢、季節などによる有職の定めを正しく伝える気品あふれるお雛様です。
(写真8)享保雛
(写真9)有職雛

京都の有職雛に対して作られた江戸の文化・文世期の古今雛、その傑作とも言える第十一代将軍家斉侯ゆかりの二十二人揃い雛人形(写真10)、この雛人形は、家斉公が、末姫誕生を祝って十数年の歳月をかけてつくりあげらせたものです。 その大小千三百点にも及ぶ道具類の数々(写真11)。 ミニチュアながら実物の高級品同様に、極めて細工が細かく、かつ絢爛(けんらん)豪華につくられており、当時の大名貴族の豪奢(ごうしゃ)な生活ぶりがしのばれます。 人形を愛し、いとおしむ気持ちがこれほどまでの美しさ、豪華さを創り出しました。 古今雛の面長な顔立ちは、京の御所文化への憧れを示しています。 また、眼にガラス玉や水晶をはめ込んだものもあり、衣装に金糸や色糸で縫紋(ぬいもん)をしたり、袖に紅綸子(べにりんず)を用いたりして華麗に色彩豊かにつくられました。 もう一つ特長のある雛人形に、徳川親藩尾張大納言十三代徳川義親侯ゆかりの十五人雛段飾り(写真12)があります。 面白いことに人形の大きさが上の段から下の段に行くほど大きくなっています。 現在ではお内裏様は、三人官女や五人囃子よりも大きいのが普通です。 これも時代背景を写しているのかも知れません。 当時、武士よりもお公家様のほうが位が高かったわけですが、「実際には、武士の方が偉いんだぞ」ということを人形の大きさに表したのかも知れません。 雛段前の金蒔絵をほどこした八角形の見事な貝桶、貝合わせは平安時代から始まった遊びで、内側に源氏絵などが描かれた360個の蛤を二つに分け、同じ絵の蛤を一対でも多く合わせたものが勝ちとなる遊びです。 この貝桶を見ていると当時の人々の貝合わせを楽しむ声が聞こえてくるようです。
(写真10)二十二人揃い雛人形
(写真11)道具類の数々
(写真12)十五人雛段飾り

ここに紹介しました人形たちは、昔の大名や旧家の所蔵品が大部分ですが、これらを特に優れた人形たちとしているわけではありません。 美術工芸的な意味での優劣はともかく、人形を愛する人々が大切にしていた人形なら、それが素朴な土人形であろうと、細工の粋をこらした豪華な雛人形であろうと、その人形を愛する人にとっては最高のものです。 幸運にも人形を愛する人々の手で今日まで受け継がれてきたことが大切なのではないでしょうか。
これらの人形を愛した当時の人々の思いをしのび、この祖先から伝わる、これら真心の遺産を大切に次代に引き継がなければなりません。

次頁のパンフレットは、平成元年まで利用していたものです。そして、横浜人形の家で人形たちを披露した後、福岡県八女市にあるフジキ工芸産業人形会館に譲り受けていただきました。現在も大切に保管展示されています。 



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