雛人形の歴史 雛人形2300年時空の旅 ドールコーディネーター平安春峰
●F日本最古の流觴曲水の宴
 
西暦七二六年に聖武天皇が行った流觴曲水の宴よりも先に、日本最古の曲水の宴が、登場します。

日本書紀の中で、第二十三代顕宗(けんそう)天皇が西暦四八五年、旧暦三月二日曲水の宴をなされたと書かれています。「三月上巳後苑に幸して曲水の宴きこしめす」と又、「公卿大夫・臣・連・国造を集へて宴を為す」とあり、宮中行事としてとりあげられています。

王羲之の蘭亭の宴より百三十二年後のことです。 ただ東晋の時代には、すでに曲水の宴は、旧暦三月三日と定められていました。 そのことから考えますとこの当時の曲水の宴は、邪馬台国の卑弥呼が、魏の国に使いを出した際に、伝わったものになります。

しかしながら、卑弥呼の使いは魏の武帝曹丕が、上巳の節句を三月三日に定める前に帰国したことになります。三月三日に定まる前後は別として、卑弥呼の時代に曲水の宴は日本に伝わり催されていたかもしれません。

しかし、書物によって書き記されている時点をはじまりとするならば、この曲水の宴が、日本最古と言えます。 そして旧暦三月三日に行なわれた流觴曲水の宴としては、続日本書紀の中で、西暦七二六年に第四十五代聖武天皇が、南苑で旧暦三月、曲水の宴を催したと書き記されているものが最古ということになります。

たまたまこの本を書いている時に、信じられないタイミングでこの日本最古の宴跡が出土したのです。

それは、西暦一九九九年七月二六日に奈良市の平城宮跡の東院庭園に隣接した北西部分敷地より日本最古の流觴曲水の宴跡が、発見されました。 その日の夜のニュースと翌日の新聞に紹介されました。 まさに、平城宮の南苑であれば、続日本書紀に書き記されていることに、一致するわけです。 そして、大阪の日本三大祭りの一つ天神祭の次の日ということも実に数奇な歴史のいたずらを感じないわけにいきません。

なぜならば、天満宮は、菅原道真公を祀っており、そして、天神祭は、道真公が好んだ行事である曲水の宴を偲んではじまったからです。道真公が日本最古の流觴曲水の宴跡の出土を導いたのかもしれません。天満宮に祀っられている道真公は、最後の遣唐使十八番目に選ばれるほどの学問にたけた平安貴族でありました。そうしたことから第五十九代宇多天皇と西暦八九〇年旧暦三月三日宮中での曲水の宴に参宴することができました。そこで、書聖王羲之の蘭亭の宴に思いをよせた詩歌を詠んでいます。
「風向になげうち渡りて 海濱に臥(ふ)せりき 憐れむべし 今日佳辰に遇ふこと 近く臨む桂殿 廻流の水 遥かに想ふ 蘭亭 晩景の春(以下略)」
そして、道真公没十数年後、大阪天満宮で流觴曲水の宴が、豪快にも小川ではなく大川ではじまりました。 杯の変わりに、船に大勢の人を乗せ、水納祭としました。 行事の思いは、人間と自然の関係にほかなりませんが、流觴曲水の宴の形は大きく変わりました。 そして、時期も梅雨が終わろうとし、台風が上陸しようとする頃に、大阪らしく盛大な日本独自の祭り文化として誕生しました。

(平城京東院庭園跡日本最古の曲水の宴跡)
           平成十一年八月一日

平安時代は、日本の歴史の中で唯一、死刑のなかった時代でした。特にこの時代人は死んでからも人を呪い祟ることができると強く信じられていました。菅原道真は民間出身でありながら右大臣まで昇りつめた人物です。菅原道真の立身出世を嫉む者も多く。ついには、太宰権師に左遷されてしまいます。二年後の九百三年、帰郷の日を待ち望みながら失意の内に五十九歳の生涯を閉じます。その後、菅原道真を左遷したであろう貴族達はおろか皇太子までが亡くなります。さらに、会議中の清涼殿に雷が落ち死傷者を出します。
ここに至って、これは、菅原道真の祟りに違いないと考えられました。そのため長岡京の都はたった10年で終わります。そして菅原道真公は、雷と結びつけて祭られるようになります。その後道真公が祭られた天満宮では、道真公の怨念を鎮めるために、宮中行事の中で道真公が最も楽しみとした曲水の宴を行うようになります。今日、太宰府天満宮では、そのままの宴で残り、前述に記しましたとおり大阪の天満宮では天神祭り船渡御(ふなとぎょう)として形を変えて残っています。また、天神祭りが、七月二十五日に行われるのは、雷の多い月であり、二十五日は菅原道真公の誕生された日、左遷された日、亡くなられた日でもあるからです。


私は、タイミングよく、今年はじめて天神祭船渡御(ふなとぎょ)に参加する機会を得ました。
そこで、道真公を祀った御輿(おみこし)を乗せた神船に何度かすれ違うことがありました。道真公が、曲水の宴を偲び、杯の代わりに自らを浮かべ、楽しんでおられるのではないかという現実離れをした思いにふけりながら、不思議な数時間を過ごしました。 それだけに、二日後の朝刊の各紙の記事には、大変興奮することになりました。そして、八月一日の日曜日さっそく日本最古の宴跡を見に行きました。大きく取り上げられたにもかかわらず、私が訪れていた間には、誰一人、宴跡を見に来る人はいませんでした。

絵に描いたように美しい夏空の下で、すでに土をかぶせられた曲水の宴を、所々に覗く石頭だけがおぼろげに物語っていました。

ここで雛人形2300年の時空の旅は、流觴曲水の宴が、日本独自の文化へ進化する時を迎えます。

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