雛人形の歴史 雛人形2300年時空の旅 ドールコーディネーター平安春峰
●H流觴曲水の宴から、「流し雛」への軌跡
 
繰り返すようですが、遣唐使の果たした役割は、多大なものがありました。 それは、平安貴族の男女を問わず庶民の生活にも大きな影響を与えました。 紫式部が書いた「源氏物語」の主人公である光源氏も、邸宅であった城南離宮で、旧暦の三月三日になると書聖王羲之の会稽山陰の蘭亭で行なわれた流觴曲水の宴を話題にしながら宴を楽しんだに違いありません。 それは、城南離宮の雅遊平安王朝源氏物語絵巻に描かれている、曲水の流れを見ても想像することができます。 この宴を楽しんでいる殿方を見て、紫式部や清少納言など貴族の女性達が、自分達にも何かできないものかと考えたとしてもおかしくないでしょう。

源氏物語と枕草子の中に「ひいな遊び」という場面がでてきます。 源氏物語の「末摘花」に「もろともにひいなあそびをしたまふ」とも書かれているように、当時の貴族の間では男女一対の人形を作って遊んでいたことがわかります。 ひいなとは、鳥の雛のように小さくて可愛らしきもの(人形)ということです。 雛人形の語源はここから生まれたといわれています。 貴族の女性達は、殿方が、流觴曲水の宴を行っている間、女の子たちとひいな遊びで、時を過ごしたのかもしれません。 そして、この上巳の節句の時期は、冒頭にも書きましたが、生命のめざめる季節です。 しかしながら、気候の変わり目は、体調をこわしやすい時期でもあります。 今も昔も流感などがはやり、病気悪癖で苦しむ時期でもあります。 そうしたことから考えても、女の子の身のけがれや災い、病苦を人形に移し、無病息災を祈り、川に流すことを考えたとしてもおかしくないでしょう。 有識者である紫式部や清少納言などは、流觴曲水の宴の起こりについても熟知していたはずです。 それは、冒頭の話を以下繰り返すことになりますが、その起こりは、水の流れを神のわざと考え、人の数奇な人生を流れにおきかえて思いにふけったところからはじまっていると考えられます。 魏の曹植は、「洛神賦」の中で、洛水の川の女神と恋に落ちる詩をのこしていることも先に書きました。 その当時の人たちは、水の中に神の存在を信じたわけです。 すなわち、神とは、人間より上にある存在であり、自然こそ神々であるという考えです。 現代に入って知識、情報だけが先行し、人間は、自然より上の存在であるという錯覚に陥る世の中になりました。 そのために、命を亡くされている例も少なくありません。 最近では、神奈川県道志川で、川の流れを軽視したために、多くの方が亡くなられました。 また、広島県では、大雨による予期せぬ水害が起こり、同じく多くの方が亡くなられています。 これだけ科学技術が発達した世の中においても、人間は自然の一部にしか他ならないのです。 静寂と荒れ狂うさまを兼ねもつ水の流れの行事である流觴曲水の宴は、中国では祖先の魂を迎える禊の日として最も大切な行事とされてきました。 そういったことを、その当時の有識者である平安貴族の女性たちは熟知していたに違いありません。 そして、女性は子供を産むという天命をもっています。

そのことから考えますと祖先を偲ぶことではなく、生命の誕生を喜び、生まれたものが、健やかに成長することを祈る行事に、流觴曲水の宴をおきかえてもおかしくないでしょう。

そして、神のわざなる川の流れに、生まれた女児の身のけがれや災いを、人形に移し、流せば、神が清めてくれると考えたとしても不思議ではないでしょう。

ここに雛人形2300年の時空の旅は、女性の登場により流し雛が生まれる軌跡をたどることができました。

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