書聖王羲之の蘭亭序日本へ渡る 
 
もし王羲之の父王曠が皇帝に南へ下ることを進言しなかったならば流觴曲水の宴も約六百年間の歴史で終わったかもしれません。 それは、雛祭りへの文化の流れの遮断をも意味することになります。 しかしながら、歴史の数奇な運命は、最大の危機の中に一光の救いを与え、中国書道史上「天下第一の行書」を生む蘭亭の宴へと導きます。
余談ですが書聖王羲之が生まれたのは、西暦三〇三年です。 そして、蘭亭の宴は、西暦三五三年の旧暦三月三日に催されました。 あたかも三月三日を強調するために意図的に合わしたように三の数字が並んでいます。 これは、単に歴史のいたずらでしょうか、もしくは、人的にこの宴をより劇的にするために仕組まれたものなのでしょうか。
その後約三百年間、中国では、異民族の支配の中、流觴曲水の宴も空白の時を過ごします。
そして唐のはじめ王羲之の書は、蘭亭序の真筆も含め約二千点、唐の太宗李世民が、王朝の威信を賭けた文化事業として、書の収集と整理に取りかかったおりに集められました。 王羲之の書の中でも蘭亭序の真筆は、唐の太宗が、最も欲したものでした。 部下の蕭翼に命じ死力を尽くして探さします。 やつとの思い出で蘭亭序の真筆を見つけた蕭翼が太宗のもとに勇んで帰る姿が、今日絵画として伝えられています。 残念なことに、西暦六四九年に太宗は臨終の床で秘宝中の秘宝であった蘭亭序を、自分の亡骸とともに埋葬するように遺言し、王羲之の約二千点の書とともに蘭亭序の真筆は永遠に地上から姿を消すことになります。 すなわち現在伝えられている蘭亭序は、王羲之の真筆ではありません。 太宗が模写係りに命じて精巧にうつさせた写本です。 この当時、唐の都長安では、書聖王羲之の蘭亭序の真筆や収集された約二千点の書の話題で盛り上がっていたことでしょう。 そして、この時期に、日本から第一回遣唐使として犬上御田鍬が、派遣されることになります。 犬上御田鍬が、唐の長安に留まったのは、たった二年のことです。しかしながら、その間に、書聖王羲之の蘭亭序が見つかった話題や約二千点の書に接し、感動したのではないでしょうか。
また、犬上御田鍬は、蘭亭序の真筆を見た唯一の日本人であったかもしれません。 
その後、遣唐使の一員として入唐した山上憶良、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄ムらは有名です。 特に、吉備真備、玄ムは、多くの新しい知識やすぐれた文物を持って帰国したといわれています。 その中には、蘭亭序の写本もあったことでしょう。 そして、遣唐使の派遣約百年後、西暦七二六年、聖武天皇が、曲水の宴を行うことになります。
ここで、雛人形二千三百年の時空の旅は、海を渡り日本国へと舞台を移すことになります。