雛人形の歴史 雛人形2300年時空の旅 ドールコーディネーター平安春峰
●C流し雛へ導く、書聖王羲之(しょせいおうぎし)の会稽山陰(かいけいさんいん)
蘭亭(らんてい)で行った流觴曲水の宴と「蘭亭序(らんていじょ)
 
魏の国は、現在の中国の中央にあたる黄河流域中原を支配していました。 また、邪馬台国の卑弥呼が使いを出したことでも知られています。 魏の曹操は、政治家として有能なだけでなく文学にも造詣(ぞうけい)が深かったことで有名です。 そして、その息子曹丕(そうひ)、曹植(そうしょく)は、その影響を受け文学に有り余る才能を示しました。 のちに魏の武帝となる曹丕は、「文章は経国の大業にして不朽(ふきゅう)の盛事(せいじ)なり」と、文学の独立を宣言し、文学(文化)は国を治めることにも匹敵する立派な仕事であると言いきっています。 また、その弟である曹植は、中国古典文学の最高傑作の一つと言われる「洛神賦(らくしんふ)」という詩を残しています。 その詩は、中国絵画史上で最初の偉大な画家といわれる顧ト之(こがいし)の傑作の一つ「洛神賦図(らくしんふず)」として描かれています。 「洛神賦」は、魏の都洛陽を流れる洛水を舞台に、曹植が洛水の女神とかなわぬ恋をする悲恋の詩です。それは、恋する女性を兄に奪われた曹植の悲恋が生んだ詩でもありました。

       
(顧ト之(こがいし)の傑作の一つ「洛神賦図(らくしんふず)」断片図)                 

二世紀の初め、この国に、邪馬台国の卑弥呼が使いを出します。魏の武帝曹丕が卑弥呼に対し漢の倭の奴の国王の金印を送ったことはあまりにも有名です。余談ですが、魏の国は、諸葛孔明に幾度となく戦いを挑まれ、その間隣国の朝鮮半島を治めることができませんでした。朝鮮半島経由で魏の国に行く事が難しく、邪馬台国の卑弥呼は、諸葛孔明が倒れるまで使いを出すことができなかったのです。魏の武帝は、卑弥呼の使者に金印を送ると同時に宮中行事の曲水の宴を伝えました。なぜなら、今日でも国家が、海外の要人を自国に招いたときは必ず何がしかの自国文化を紹介するのが常だからです。ということは、日本最初の国家誕生と同時にこの宴が伝わったことになります。

このように、魏の国には多くの詩が残っています。 しかしながら不思議なことに、蜀の劉備、諸葛孔明の詩はほとんど残っていません。 文章として残っているのも、諸葛孔明の「出師(すいし)の章(しょう)」ぐらいのものです。 七分の一の国力でありながら蜀の国を守り抜いた天才軍師孔明ですが、さすがに詩を残すだけの余裕は奪われたのかもしれません。 そして、この文学が急激に開花した魏の国で流觴曲水の宴もさらに貴族文化の粋とされる雅な遊びとなります。

この魏の国での文学の開花には、書の歴史が、大きな役割をしめています。

書がこの時代急速に進歩します。 そこには、筆記具と紙の普及がかかわってきます。 まず、前漢時代の紙が、甘粛省天水市(かんしゅくしょうてんすいし)で見つかりました。 現在最古の紙の出現です。

その後、後漢の終わりに紙の製法が改良され、古くから使われてきた毛筆とがかみ合い急速に書の世界が開花しました。 紙が考案されるまでは、流觴曲水の宴も木簡(もくかん)、竹簡(ちくかん)に詩が書かれていました。 この書の画期的な進歩が、多くの書体を生みだしました。

その後、書は、中国では、絵画よりも上とされ芸術の頂点を極めることになります。

その書を芸術まで高め頂点を極めるのが書の聖人とまで呼ばれた王羲之(おうぎし)です。

書聖王羲之は、並々ならぬ書の研鑚の中から行書体をあみだします。 「書は人なり」という言葉がありますが、書聖王羲之は生涯を賭けて、まさにこの言葉を身をもって示した人物です。 そして書聖王羲之が、後世に名を残す会稽山陰(かいけいさんいん)の蘭亭(らんてい)で流觴曲水の宴を催します。 当時、王羲之五十歳、後にも先にも生涯つうじてただ一度の流觴曲水の宴です。 
 そして、中国史上最も代表的な宴となり、後世の画家たちが、この日の故事にちなむ名画を数多く残しています。 
 この宴は、東晋(とうしん)永和九年、西暦三五三年の旧暦三月三日。 紹興酒(しょうこうしゅ)で有名な紹興市郊外会稽山陰の蘭亭に、当代の名士たち四十一人を集めてはじまりました。そこで、できあがった詩文を一冊にまとめ、巻頭に王羲之が序文をつけました。


これこそ中国書道史上「天下第一の行書」と絶賛される「蘭亭序(らんていじょ)」です。

(書聖王羲之「蘭亭序(らんていじょ)」拓本の一部作者不明)  

雛人形の歴史の中でも大切な序文の登場です。

なぜなら、この蘭亭序は、この後日本の文化人に大きく影響をもたらし、日本に流觴曲水の宴を飛躍的に広め、流し雛へと導くからです。
なこの本を書いている時、中国へ行く機会がありました。旅行代理店の方に上海から紹興市は近いと聞きましたので、途中半日抜けて別行動したいとお願いしました。ところが、実際の距離は五百キロ以上もあるのです。書聖王羲之が、紹興市郊外会稽山陰の蘭亭で催した曲水の宴跡へ行く機会は次回にお預けとなりました。

中国へ旅行をした時にお土産店で「三国志」の英雄達に出会うことができました。彼らは、水晶玉の内側を円形にくり抜いた球面に描かれていました。

        
(三国志の英雄 劉備、関飛、張飛の絵)    (闘聖帝君 劉備元徳 文字)             (百子猛)        

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