蘭亭序は、「東晋永和九年、歳は癸丑(みずのとうし)に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。」とあまりにも有名な書きだしではじまります。 この書きだしにつづけて、会稽山陰の風景、穏やかな春、そしてほとばしる生命、そして、春風に誘われるようにはじまる宴の様子が書かれていきます。 次に、人の生死という命題が書かれていきます。 「人は、宴につどい、満ち足りた時を過ごしている間は、歳をとって死に近づいていくことなど考えもしない。 昔の人は言った、生きることも死ぬことも、ともに大問題である。」 そして、生きることも死ぬことも同じであるという考え、長寿も短命も同じであるという考えを強く否定しています。 そして、最後に、「時が流れ世の中が変わっても、この日に宴を開いた自分たちの心を読みとってほしい。」と蘭亭序を結んでいます。 |
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この序文の最後の部分で自分たちの心を読みとってほしいと書いています。 |
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その心とは漢民族滅亡の危機の中、あえて流觴曲水の宴という民族伝統の行事を通して、今一度漢民族の誇りを、人々の心に呼び覚まそうとしたのではないかと言われています。 それは、次のような時代背景があったからです。 三国志の時代が終わり久しぶりに中国全土を統一したのは、三国のどの国でもありませんでした。 蜀の諸葛孔明と晩年雌雄を決して戦った魏の名称司馬仲達(しばちゅうたつ)の孫、司馬炎(しばえん)でありました。 しかし、司馬炎が、興した晋の国もわずか三十年で滅亡することになります。 北方の遊牧騎馬民族(匈奴(きょうど))が勢力を増し、ついに漢民族は、異民族に有史以来はじめて中原、すなわち黄河流域をあけわたすことになります。
そして、黄河を渡りついには長江をも渡り、過っての敵地である呉の都、江南、現在の南京に落ちのび、この地で漢民族の文化が開花させます。この時、南に落ちのびることを皇帝に進言したのが王羲之の父王曠(おうこう)でした。 王曠は、王羲之の幼い頃に匈奴軍との戦いに負け、捕虜になりました。 その当時、虜囚の身は、死ぬことより恥じとされていました。 そのため、幼い頃から王羲之は、異民族に対する憤りと憎しみを生涯忘れることなく持ちつづけることになりました。 会稽の宴の少し前には、護軍将軍の地位につき、北伐(ほくばつ)の機会を狙える立場にもなりました。 しかし、北伐の機会は訪れず、匈奴を撃ち中原を奪回することはできませんでした。 その当時、東晋の人々の心の中に、あきらめの気持ちが漂いはじめていました。 |
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そのため、王羲之は、蘭亭序の中で人の生死という命題を問い、生きぬくことであきらめに似た気持ちを一掃し、伝統行事(流觴曲水の宴)を通し、漢民族の誇りを取り戻そうとしたのです。 |
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王羲之の生きぬくという精神が、連綿と続いてきた漢民族の伝統文化を消滅の危機から救ったと言えます。なぜなら、異民族は必ず侵略時に、文化を自分たちのものに置きかえるため、先住の文化を消滅させてしまうからです。 |
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ま王羲之の願いは、すぐにはかないませんでした。その後、約三百年間中国では、戦乱の世が続きます。漢民族が中原を完全に奪回するまでには、唐の太利世民の登場を待つ事になります。しかしながら、王羲之の精神は、蘭亭序を筆頭に約二千点余りの書の中に込められ、約三百年後に蘇ることになります。 |
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(雛人形八つの役割その四 家族のだんらん ひな祭りは家族のコミュニケーションを深めてきました。) |