遣唐使が平安貴族に与えた影響
西暦八九四年遣唐使は、第十八回目に菅原道真が派遣されることになりますが、唐の政情悪化にともない廃止になります。 そして、中国の唐は、西暦九〇七年に滅亡することになります。 その後中国の文化は、大きく変わることになります。 しかしながら、日本では、奈良時代から平安時代初期までに遣隋使や遣唐使の活躍により導入した中国唐の文化を凍結保存します。 そして、室町時代のある時期まで正規の交渉を持たず唐の文化を日本独自の文化に染めながら解凍していきます。 たとえば、流觴曲水の宴は、女性の上巳の節句として流し雛へと進化し、水との関わりが深い大阪では、天神祭へと進化していきます。 ここで流し雛への進化を説明する前に、もう少し遣唐使の役割を紹介します。 後半に派遣された、第十六回目遣唐使の一員として、随行した空海と最澄について少しふれておきます。
なぜなら、より当時の平安貴族の人々の大陸文化への執着と日常での普及が伝わるような気がするからです。 この二人の天才が、遣唐使に随行することにより、日本の仏教に大きな影響をもたらします。 そして、同時に最澄の天台宗、空海の真言宗の両宗は、密教の興隆とともに加持祈祷をつうじ朝廷内部にはいりこみ、貴族の生活にも多くの影響を与えます。 特に空海の才能は、並外れたものがありました。 たとえば、空海が唐の都長安に入って五ヶ月で習得したサンスクリット語は、仏教を知る上で必要な言語で、当時の貧困な日本語世界からは、想像もできない言語であり、中国語の言語でも訳しにくいものでありました。 当時の最新の仏教であった密教は、二つの体系があり、両系の相伝者は、恵果という僧ただ一人でした。 恵果の門人は、一千人と言われていました。 その中から恵果が次の相伝者として選んだのは、誰でもなく突如日本からあらわれた空海でした。 このことからしても、空海が並外れた才能の持ち主であっことは、間違いないでしょう。 そして、空海は、世界でただ一人の密教世界両系の相伝者として、多くの経典とともに日本へ帰国します。 また、空海は、書にもひいでたものを持っていました。 書にひいでた者が多い中国において、唐の皇帝の請いで、宮廷の壁に揮毫して五筆和尚(両手、両足、口に筆を持ち一度に文字を書き上げることができる和尚)という異名を授けられたとも言われています。 帰国後、嵯峨天皇からも賞賛を受け、宮城の東西南北の門額を天皇、空海、橘逸勢の三人で受け持ち書き改めました。 そうしたことから、この三人がのちに三筆とよばれるようになったわけです。
ここに記したいことは、如何に優秀な人達が遣唐使に混じり派遣されたかということです。 そして、日本へ仏教にしろ、書にしろ、浅く広くではなく、許された時間の中で、如何に奥深く、中には頂点を極めて持ち帰ったかということです。 その持ち帰られたものは、現代の我々が想像する以上に、その当時の人々の中で話題になったことに違いありません。 たとえば、流觴曲水の宴の古事や書聖王羲之の書に対する思いなどは、平安貴族の日常会話の中で常に語られていたことでしょう。 現在に置き換えれば、アメリカ文化であるディズニーランドやユニバーサルスタジオなどが日本に来たようなものです。 そして、流觴曲水の宴は、貴族の年中行事の中に取り入れられ定着します。 しかしながら、この当時は、まだまだ男性社会のため現在京都の城南宮で見られるような十二単を着た女性が、曲水の宴に参加することはなかったと考えられます。
また、貴族の中でも、階位が五位以上でなければ、行ってはならないという規則がありました。 また、蘭亭の宴の古事にちなんで描かれた、絵画を見ても、女性の姿はありません。 しかしながら、流觴曲水の宴に参加できない平安貴族の女性たちのなかには、宴の中で十分に詩を読み上げることができるだけの文学的才能に長けた詩人が沢山いました。 たとえば、世界最古の女性文学「源氏物語」を書いた紫式部や随筆「枕草子」を書いた清少納言などの女性達です。 文学的才能に恵まれた女性にとって、男性だけが行う流觴曲水の宴は、羨ましく思えてならなかったことでしょう。 また、庶民にとっても同じ思いであったことでしょう。 極端なたとえになりますが、今日、ディズニーランドやユニバーサルスタジオに一部の特権階級人達で、それも男性しか入場できないようなものです。
ここに雛人形二千三百年の時空の旅は、女性の登場により曲水の宴から流し雛へと大きな局面を迎えます。