流觴曲水の宴から、「流し雛」への軌跡
遣唐使により、書聖王羲之の蘭亭序にまつわる話などは事細かに日本に伝わりました。 そして、平安貴族の男女を問わず庶民の生活の中でも話題になりました。
紫式部が書いた「源氏物語」の主人公である光源氏も、旧暦の三月三日になると書聖王羲之の会稽山陰の蘭亭序を話題にしながら宴を楽しんだことでしょう。 この宴を楽しんでいる殿方を見て、紫式部や清少納言など貴族の女性達が、自分達にも何かできないものかと考えたとしてもおかしくないでしょう。
(京都城南宮楽水苑の遣水では、今も曲水の宴が行われています。)
源氏物語と枕草子の中に「ひいな遊び」という場面がでてきます。 源氏物語の「末摘花」に「もろともにひいなあそびをしたまふ」とも書かれているように、当時の貴族の間では男女一対の人形を作って遊んでいたことがわかります。 ひいなとは、鳥の雛のように小さくて可愛らしきもの(人形)ということです。 雛人形の語源はここから生まれたといわれています。 貴族の女性達は、殿方が、流觴曲水の宴を行っている間、女の子たちとひいな遊びで、時を過ごしていました。 そして、この上巳の節句の時期は、気候の変わり目で、体調をこわしやすい時期でもあります。 今も昔も流感などがはやり、多くの人々が苦しむことが多い季節です。 そのことと前述の「ひいな遊び」とをからめて、女の子の身のけがれや災いを人形に移し、無病息災を祈り、川に流すことを考えたのです。 有識者である紫式部や清少納言などは、曲水の宴の起こりについても熟知していました。 この女性達が、独創的なアイデンティティーを持って新しい文化行事に開花させたのです。 このアイデンティティーの源は、子供を産む天命と、その子供を大切に育てなければならない女性の使命にあります。 そこから、祖先を偲ぶと同時に、生命の誕生を喜び、生まれたものが、健やかに成長することを祈る行事を考えたのです。 それが、曲水の宴を女性的な内容のスタイルに置き換えた流し雛です。
流し雛は、神のわざなる川の流れに、生まれた女児の身のけがれや災いを、人形に移し、流せば、神が清めてくれるという内容の行事です。
このような行事を考案できるのは、当時の女性貴族を代表する紫式部や清少納言などの有識者であったと考えられます。
ここで雛人形二千三百年の時空の旅の中でも、最も大切な流し雛の誕生を迎えることになります。
男性社会では、「曲水の宴」は中国から伝った雅な宮中行事でしかありませんでした。
ところが、女性は、「曲水の宴」の殻を破り、流し雛を誕生させたのです。