「雛人形2300年時空の旅」あらすじ 
                         ドールコーディネーター 平安春峰

雛人形の起源には、諸説があります。 約二千三百年前、中国の戦国時代のはじめ宮中の行事として「流觴曲水の宴」が行われるようになりました。 「流觴曲水の宴」とは、した小川のほとりに、適度な間隔に、点々と詩人がたたずみ、川上より杯を流し、杯が流れて来るまでに詩を詠みあげなければならない、もし、詠みあげることができなければ、杯のお酒を飲み干さなければならないという優雅な宴です。
中国では、この宴を上巳の節句の行事として、旧暦三月はじめの巳の日に行われてきました。
そして、約五百年後、世に有名な中国の三国志の時代に、魏の国により上巳の節句は、旧暦三月三日に定められました。 日本では、邪馬台国の卑弥呼が、魏の国に使いを出した頃のことです。 そして、行書体を生んだ書聖王羲之が、西暦三五三年に、紹興市会稽山陰の蘭亭で行った「流觴曲水の宴」で、天下第一行書とうたわれる「蘭亭序」を書き残します。 この時に行われた、曲水の宴を後世の多くの画家達が描き、今日に伝えています。 この宴は、日本に伝えられ、日本書紀の中で行われたことが記載されています。 第二十三代顕宗天皇が西暦四八五年、旧暦三月二日に曲水の宴を行ったと書かれています。
その後、続日本書紀の中で、西暦七二六年に第四十五代聖武天皇が、南苑で旧暦三月三日、曲水の宴を行ったと書かれています。 この後、遣隋使、遣唐使により、より一層繊細に伝えられ、正式に宮中行事として取り上げられるようになりました。 日本でも中国でも、旧暦三月は、自然の中で生命が息づく時であり、それは人々に、生きている実感を与えます。 同時に、我々に、先祖があって今日があることを改めて認識させてくれる季節でもあります。 又、この頃は、気候の変わり目のため、病気悪癖が流行する時期でもあります。 そうした時期に、自らを戒めるためにも、古来より連綿とこの宴は、行われてきたのです。
千三百年後、日本では、平安時代に、流し雛として、日本独自の女性文化として開花します。
「流觴曲水の宴」は、平安貴族の位の高い男性だけが、参加することができました。
文学の才能にたけた女性貴族が、男性に対抗し、女の子の行事として、源氏物語や枕の草子に描かれている、ひいな遊びとからめ、流し雛の行事を誕生させたのです。 それは、女の子が無病息災で一年間過ごすことができることを願い、人形を川や海に流す行事でした。 その流し雛にのせられた、簡素な人形が完成度を高め、飾り雛へと発展します。 室町時代に、立ち雛となり、江戸時代には、平安貴族の衣裳を再現したすわり雛になり、官女や五人ばやしなどの取り巻きの人形が増え、お膳揃えや嫁入り道具も飾りに加えられ、豪華な雛段飾りとなります。 そして、江戸中期には、庶民の間にも広まり、人形文化の黄金時代を開花させることになります。 そして、江戸時代の大奥で催された、お雛飾りが、おひなまつりと呼ばれるようになり、女の子のおまつりとして、とりわけ大切な行事となったのです。
昔から雛もうせんの赤は、魔よけ色とされてきました。 そして、温度差が激しいため体調を壊しやすい旧暦三月の時期に、日本の寒色の家屋に、暖色の雛もうせんは、人々の心に暖かい平安を与えてきました。そもそも雛人形の飾りは、「お飾りの期間は、体に気をつけなければなりませんよ。」と言った危険信号的役割を果たしてきたのです。

      
(写真左から万里の長城1985年、1999年同場所、還暦のお雛様)
雛人形の起源は、万里の長城が築かれた二千三百年前にさかのぼることができます。
漢民族は、北方騎馬民族より国を守るために、万里の長城を築きました。 平安貴族の女性は、女児を災いや病気悪癖から守るために、流し雛の行事を誕生させました。
人間は、何かを守るために、過去においても、現代においても何かを造り、何かを誕生させてきたのです。