流觴曲水の宴、その季節が定まり「上巳の節句」と呼ばれるようになる
春秋戦国時代の遺跡から多くの觴と呼ばれる曲水の宴に使われた漆器の杯が出土しています。 觴とは、楕円形をした深めの杯のふちに平たい耳がつき独特の形をしていました。
それは、十分水に浮く形を成していました。 そして、その形から羽觴と呼ばれていました。
後世の画家たちは多くの曲水の宴を描いています。 しかしながら、觴を直接川に浮かべず竹の盆や蓮の葉にのせた絵を描いています。 曲水の宴として形をなすまでは、觴ではなく人のからだを流したとも言われています。 曲水の宴は、人々があらゆるけがれを払う禊の行事でもあったのです。
また、中国では、曲水の宴は、祖先の魂を迎える禊の日としてもとりわけ大切な行事となりました。
そして、この行事は、季節の節目に行なわれるようになりました。 中でも、厳しい冬が過ぎ、穏やかな春を迎える時期に、「今一度、温度差に気お付けなければなりませんよ」といった、危険信号的な役割を持った行事として、旧暦三月はじめの巳の日(毎年三月はじめの巳の日は十二支の周り順で替わる。)に行なわれました。
日本であれ中国であれ四季の気候はさほど変わりがありません。 この上巳の日に、流觴曲水の宴が行なわれるようになったのです。
そして、曲水の宴は、「上巳の節句」と呼ばれるようになります。
すなわち上巳の節句の行事として曲水の宴が行なわれることになるわけです。
雛人形二千三百年時空の旅の中でも大切な言葉の登場です。
なぜなら、現在でも雛祭りは、三月三日の「上巳の節句」と呼ばれているからです。