上巳の節句は、魏の時代に「旧暦三月三日」と定まる
春秋戦国時代からはじまったとされる流觴曲水の宴は、秦の始皇帝の時代、その時代を終わらせた項羽と劉邦の争いの時代、劉邦が天下を制し築いた漢王朝の時代、その間、約五百年の時流を漢民族の大切な伝統行事として、さまざまな人々が受け継ぎ、連綿と催されてきました。
そして、漢王朝が、紀元前の前漢から紀元後の後漢まで約四百年間続きながらついに、断末魔の悲鳴をあげながら崩壊します。 そして、世に有名な三国志の時代を迎えます。 魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が壮絶な戦いを繰り広げる治乱興亡の時代です。
その中でも劉邦の血を引く漢王朝の末裔劉備を支え国力が魏の七分の一しかない蜀の国を守り法と秩序ある平和な世の中を目指した諸葛孔明などは有名です。 今日多くの人々に三国志の物語は愛読されています。 登場人物八千人以上という壮大なスケールの物語です。 ほとんどの人が、口伝えからなる三国志演義を元にした小説三国志を読んでいます。 原文の正史三国志まで読んだ人は少ないと思います。 三国志を読まれた方は、この時代の登場人物や状況などを思い起こしてください。 この時代に、旧暦三月はじめの巳の日に行なわれた上巳の節句が、三月三日に行なわれるように定められたのです。 蜀の天才軍師諸葛孔明が最後に戦った国が魏でありました。 そして、三月三日を上巳の節句と決めたのは、魏の曹操の長男曹丕でありました。
小説三国志には、そのことは書かれていませんが、この群雄割拠のサバイバルレースが展開されていた時代に、流觴曲水の宴は大切な宮中行事として催されていたのです。
三月三日を上巳の節句と固定した魏の武帝曹丕も、まさか約千八百年後の日本で、この節句が雛祭りとして祝われることになるとは想像もしなかったことでしょう。
雛人形二千三百年時空の旅の中でも大切な歴史上の事柄です。
それは、日本において三月三日が雛祭りとなった起源でもあるからです。