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森重商店の創業 |
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大正8年7月初代森重春雄が南大阪の住吉に化粧品問屋「森重商店」を創業。
昭和22年夏、焼け野原の船場の町、久宝寺橋東詰の土地二十坪(66u)を即金で買い、移転し「株式会社森重商店」と改めた
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多角経営として楽器販売に進出 |
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昭和30年代に入って化粧品業界も流通革新の波に表れ、古いノレンの世界に生きる船場の化粧品問屋にも否応なく押し寄せ、体質の変革を迫られる。
昭和36年森重正子(初代森重春雄の長女)が二代目社長となり、吾郷光夫(現社長)が常務として就任。多角経営に切り替え販売拡大を目指して直ちに、従来の化粧品販売に加えてすでに着想していた楽器販売を、河合楽器(当時河合滋社長)と提携のもとに根城松屋町筋の35坪の建物で開始した。化粧品販売ルートをフルに活用、ピアノ、オルガンなどを月間500台を販売するという日本で有数の実績をあげた。
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人形の製造販売に転換 |
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昭和40年河合楽器が大阪支社設立直販、伸び悩みなども関連して四年間順調にいっていた楽器販売および化粧品卸売業をこれを機にやめて、もともと人形の町、松屋町という立地条件から「人形の製作・製造・直販」に転換した。吾郷光夫が専務となる。
同年7月人形氏を募集採用し、10月より人形製造直販を開始した。 |
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近畿一円に多店舗展開 |
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昭和42年以降、大阪市・船場センターの設置を初め、大阪本社ビル他、大阪・兵庫・和歌山・奈良・京都の各府県下に26店を設置し、多店舗大型人形専門店化をはかってきた。
伝統産業人業界で、種々困難な頭打ちをへながら、それでも年々売り上げを倍増した。 |
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社名の改称と宣伝 |
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昭和43年社名を「株式会社モリシゲ」と改称した。繁盛(ハンジョウ)の表を縁起のよい盛繁(モリシゲ)と読むところに由来。伝統を売りものの節句人形界で、逆に印象付けるためにとった社名の片仮名化とともに、”のぼり、看板”などに黄色地に赤い文字を配するコーポレートカラーを採用するなど、モリシゲのイメージ作りを進めた。
昭和45年からは、チラシ、大阪市営バスのボディ広告をはじめ、新聞広告・テレビ・ラジオなどのマスコミ媒体を通じて広告・宣伝を開始し、さらに各種SP戦略へと売り上げとともに増大した。いまや近畿圏でのモリシゲ知名度は95%以上となった。
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新生モリシゲが歩みを開始 |
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昭和60年5月1日、吾郷光夫が三代目社長に就任して、新体制のもとに新生モリシゲが歩みを開始した。
平成2年、大久保西神戸店の開店に続き、平成3年歓喜大阪店が松屋町筋内久宝寺東南角に開店、ちなみにこの土地は松下幸之助氏が上阪して丁稚奉公をした五代自転車店の跡地である。
平成3年10月、長年の念願であった流通センターを生駒市に建設。歓喜生駒店も流通センター直販店として同時開店し、人形のモリシゲは、日本一の大型人形専門店を目指して躍進を続けている。
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歓喜株式会社を設立 |
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翔亜61年7月11日、姉妹会社として七五三晴着・お宮参り産着・ベビーカー等の子供用品や各種人形及び節句用品を扱う「歓喜株式会社」を設立、社長に長男の吾郷裕亮が就任した。
平成7年7月には、シャディの贈答品を取り扱い、積極経営を行っている。 |
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神戸三宮店が阪神・淡路大震災により閉鎖 |
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平成7年1月17日の阪神・淡路大震災により、昭和57年神戸新聞会館1階に開店の神戸三宮の破壊が激しく、行政当局の要請により建物の解体止むなきにいたり営業不可能となった。が、顧客の便宜を考慮し出張販売と企画、11月と平成7年1月神戸市産業センターにて実施。
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| モリシゲ写真の歴史
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